銭湯に行く
今日は、銭湯へ行くことを思い立った。
なぜ、銭湯に行こうという気になったのかというと、ここ最近肩の調子が悪く、
その治療の一環として、銭湯に行くことに決めたのである。
私の住んでいるアパートから、銭湯までは少し距離がある。
しかし、かといって自転車を使うほど遠くはない。
私は10分ほど考えた挙句、自転車で行くことにした。
午後6時。私は着替えを詰めた鞄を持ち、アパートを出た。
自転車に乗り、近くの銭湯を目指す。小さな路地を抜け、幹線道路に出た。
銭湯に行くためには、幹線道路を横切らねばならない。私は横断歩道を渡ろうとしたが、青信号が点滅し始めたので、次の青信号を待つことにした。
横断歩道の向こう側には、帰宅途中と思われる高校生の集団が雑談をしていた。
何を話しているのだろう。私も高校生だったころがあった。
あの頃は、怠惰な自分を変えるために、激しい部活動に汗を流し、柄にもなく夢や希望を掲げて、日々邁進していた。しかし、変わらなかった。次第に、すべてが苦しくなり、すべてを投げ出した。
あの時否定した自分は、まだこの横断歩道で信号を待ち続けている。
別に、悲しくはない。それが私自身であるということだからだ。それは、例えば猫が猫であり、人ではないのと同じように、私は私なのである。変えようがない。
そんなことを思いながら、横断歩道が青であることを確認して、再び自転車をこぎたした。
数分後、目的の銭湯へ到着した。
路肩に自転車を止めて、銭湯へ入る。木製の古びた靴箱に自身の靴を入れて、鍵の札を引き抜く。35番の札であった。入り口付近の店番のおかみさんに入浴料を支払い、
脱衣室へ向かった。
平日の午後6時台というのもあり、脱衣所には誰もいなかった。準備を済ませ、浴場へ行く。浴場にはすでに3人ほどおり、いずれも顔なじみのようだった。
私は浴場の隅にある洗面器等を取り、シャワーを使って体を洗った。
その後、浴槽へ行く。湯船につかり、肩こりを和らげるために肩を揉んだ。
10分もしないうちに、体がのぼせてきたので、体を洗い、浴場を出た。
脱衣所で一連の支度を済ませる。最後に自動販売機で飲み物を買おうか悩んだが、
お金がもったいないので、買うのを辞めた。脱衣所を出て、おかみさんに会釈をしつつ、銭湯を後にした。
肩こりの調子は割とよくなったように感じる。
帰る途中にやはり物足りなさを感じ、コンビニに寄り、アイスを購入した。
無事帰宅し、アイスを食す。銭湯帰りのアイスは格別にうまかった。
私は銭湯とアイスさえあれば、それでいいと思う。それは大げさであろうか。
いや、この程度の幸せが、細く長く続けばそれでいいのである。
しかし、それを手に入れるのも難しいのが現状である。
私はこの小さな幸せを手に入れるのも難しいほど非力だ。
私はどうすべきなのか。そんなことを思う日々である。
何日目だろう
今日は朝4時に目が覚めた。薄暗い部屋の壁には、アパートの脇にある幹線道路からの光がゆらゆらと写し出されていた。
「もう、朝か」そう誰に向けるでもない独り言をつぶやいた。私はなんと思うでもなく、ただ天井を見つめた。何かを考えようとしたが、そうすればまた不安が顔を出すので、何も考えなかった。数分後、特に何もすることがないし、朝食も買いに行く気力がなかったので、また眠ることにした。
次に目が覚めたのは、午前11時ごろだった。窓から差し込む日の光から逃げるように布団から出た。「今日は何日だろう」そう呟いてカレンダーに目を向けた。毎日行うこの所作にあまり意味はない。なぜなら、今日は昨日と同じだし、明日も今日と同じだからである。
朝食を食べて、その後はネットを徘徊していた。
それも次第に飽きてきて、横になる。次第にあれこれとまた考え出してしまう。
どうにも耐えられそうにないので、少し外を歩くことにした。
都会の町は、田舎と違って、昼間に外を歩く者がいても怪訝な顔をされない。
なぜなら人が多すぎるからだ。皆、それぞれの日常を生きている。
空はぼんやり靄がかった青空で、金木犀の香りが漂っていた。
いつか来たような気がする道をとぼとぼと歩きながら、昔のことを
思い出したりする。昔は幸せだったかもしれないし、不幸せだったかもしれない。
そんなことは、もう覚えていない。
ただ、あの日も今日と同じ金木犀の香りがしていたことは覚えている。
特になんというわけでもない記憶である。
今日と同じように金木犀の香りが、冬の暗く寒い様を彷彿とさせていた。私はそのころ
それをどうすればよいか分からずにいた。あの日から何日たったのだろう。
ふとそんなことを思いつつ、来た道を折り返した。
特に何もない
今日は特に何もなかった。
いつものように起きて、ネットをただぼーっと眺めていた。
なんかやりたいなと思いつつ、肩こりの調子が良くないので、なにもする気が起きない。
そもそも、最近、日常に変化がなさ過ぎて、時間が過ぎるのを早く感じる。
まだ私が一端の社会人だったころは、22時から24時までの時間を休息時間として
大事に過ごしていた。
しかし、最近は2時間なんてあっという間で、気が付いたらその日が終わっていることなんかがざらにある。
全く、人生の無駄な消費である。
そうわかっているが、何かをする気力は沸いてこない。
ただただ、人生を無駄に垂れ流していく。
自分の人生が虚しく流れ出ていく様を、ただただ横目で見るような感覚。
そんな日々である。
なんか生きにくい
今日は朝早くに起き、近くのコンビニにパンを買いに行った。空はどんよりとした曇り空。何事もなくパンを買って家路につく。
さあ、今日は何をしようか、そう考えながらPCを開く。そのままネットサーフィンを3時間ほど続けて、眠くなったので横になった。
そんなときは決まって、不安が押し寄せる。その不安を拭おうとスマホを片手に2chのまとめサイトを閲覧する。特に興味のない話題を、なんと思うわけでもなくただ眺める。
少し気持ちが落ち着いてきたので、ようやくうたた寝を始める。
そんなことをしているうちに、昼下がりとなった。重い体をなんとか立たせ、湿り気の残るベランダから空を眺める。
曇り空である。このところ天気が悪い。だからだろうか、この何とも言えない閉塞感が身を包むのは。一つ先の繁華街の路地には、傘を持った人々が行き交っている。
皆、同じ時間に同じ格好をして、同じようにうな垂れながら、同じように今日を消費する。それが正しいから、彼らはそれをするのである。そうすれば、私のように閉塞感を感じることはないのだろうか?。いやそうではないだろう。私はそんなことを考えながら、アパートの近くをせわしく通り過ぎる列車の音を聞いた。